#BLMとD&I、多様性を履き違えた先に幸福はない

 米國の分断が止まらない。所謂#BLM(Black Lives Matter)運動は過激化しており、ネットにアップされている動画を観るだけで正直かなり憂鬱な気分になる。人を傷つけることに何の躊躇もない彼らを見て、破壊活動家はやはり幸福になれないし人を幸福にすることもできないのだと改めて確信した。自覚的にせよ無自覚的にせよ、多様性を声高に叫ぶ人が寧ろそれの破壊に熱心なのは万国共通なのかもしれない。

 もともと黒人に対する差別について問題提起する運動だったはずが、結局その運動をしている自分たちも自分と異なる立場の人間を攻撃している。己の自由を主張して良いのは他人の自由を侵害したり他人を傷つけたりしない範囲においてのみである。この自己矛盾というか二重基準を持ったまま訴えかけて誰が聞く耳を持つのか。これは自戒も込めてであるが、二重基準は人として最も恥ずべきことの一つだと私は思う。人は油断するとつい自分のことを棚に上げてしまう。気を引き締めたい。ただし、自分のことを棚に上げて良い(寧ろそうすべき)場面も存在する。その違いを理解しない人がそれを批判するのを目にすると辟易する。

 話が随分と逸れたが、#BLMを見ていると、D&Iも同じような落とし穴に嵌りかねない概念だと感じている。私が勤める会社も、「多様性と包摂」といったことを以前から掲げている。英語で言うとDiversity & Inclusion(Inclusion & Diversityと言う場合もある)、略してD&I(又はI&D)と言ったりする。まあ概念としては読んで字の如く、お互いの多様性を尊重してどんな人も排除せずに包摂しましょう、といったことなのだが、これがまた曲者だ。

 多様性を尊重することも異なる人を包摂することも、重要だということは誰だって分かっている。そこに異論を差し挟む人はひねくれ者以外には基本的にいないだろう。実際、例えば職場の場合、多様性が生産性を向上させることも研究等で明らかになっている。倫理的に正しいというだけでなく、実利もあるのだ。

 しかし、だ。困ったことに、こうした概念を拡大解釈、あるいは自分にだけ適用する輩が必ず現れる。拡大解釈というのは例えば、多様性を尊重しろと言いながらその組織や社会の基本方針にそぐわないことを押し通そうとすることだ。会社であれば、企業理念などがあって、それに反することはいくら多様性と言われても当然できない。それがしたいなら別の会社に行ってくださいということになる。これは國や社会も同じだ。認められるのはあくまでその範囲内での多様性だ。自分にだけ適用するというのは例えば、多様性が重要だから自分の言うことを聞けと言わんばかりに自分の主張をぐいぐい展開しそれを包摂することを他人に求めながら、他人の言うことには耳を貸さず自己主張だけすることだ。いずれも、自己矛盾・二重基準という意味で本質的には同根だ。

 米國のトランプ大統領はよく “LAW & ORDER!!” とtweetしている。「法と秩序」だ。これは米国の基本的な姿勢の一つだ。過激な#BLM運動は明らかにこれに反している。泥棒したり、物を壊したり、火をつけたり、人を殴ったりしているのだ。多様性と言えば何でも許されるわけではない。所属する組織や社会の方針に則ることが前提としてあり、その上での多様性と包摂だ。それを履き違えてしまうと人の生き方として間違う。破壊活動家というのは良心がないか、その良心のない破壊活動家の誤りや矛盾に気付く知性を身に付けていないために騙されているかのどちらかだ。ある程度以上の知性があり、良心も持ちあわせていれば、破壊活動家にはなりようがない。やはり彼らは幸福になれないし人を幸福にすることもできない。

 この議論は差別の議論とも密接に関係している。例えば移民問題。今、欧州、特に西側は、この移民の問題で苦しみ喘いでいる。多様性と差別の関係性についての議論は、長くなるので別に展開する。

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