新型コロナに勝利する鍵、「次」と「清」、日本伝統のゾーニング

 武漢ウイルスが世界に厄災をもたらしてから早九ヶ月。不自由な生活が続いているとはいえ、我が國では諸外國と比べて随分と被害は抑えられている。専門家会議の適切な分析と助言、医療従事者をはじめとする多くの方々の努力、そうしたことがこの状況に貢献していることは間違いないと思うが、諸外國と我が國とのあまりに大きな差はどこから来ているのか、この理由については様々な仮説が語られている。きっと一つの要因ではなく多くの因子が絡み合って現状を作っているのだろうが、その中でも、日本人の清潔感であったり綺麗好きの意識というものが大きな力を発揮しているように思える。「次」と「清」の概念、子供の頃から親に口うるさく躾けられた習慣が鍵を握っているような気がする。

 少し前の記事にはなるが、自衛隊中央病院で院内感染が全く起きておらず、その成功の理由はゾーニング(区域分け)という感染症対策の基本の徹底だという1)。ここ自衛隊中央病院では、クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」の集団感染において最多となる100人超の陽性患者を受け入れたのをはじめ、この時点で220人以上の陽性者を受け入れているが集団感染が起きていなかった。ゾーニングとは、ウイルスが存在するところとしないところの境界をはっきりと区分けして、それぞれにおける適切な行動を徹底することだ。勿論これは感染症と戦う上での基本なので、「大半の医療機関は個人防護やゾーニングを心掛けている」そうだが、「疲労が蓄積し、集中力と体力が低下しやすい環境で、隙なく行うのは簡単ではない」1)のだという。人間、ついうっかりということは誰にでもあるし、疲れて体力・気力・集中力が低下していれば猶更であろう。

 だが考えてみたら、日本人にはこの感覚が結構染み付いているのではないか、と気付く。ゾーニングというカタカナを使うまでもなく、昔から実践されている「次」と「清」である。

 神聖な場所では外から穢れを持ち込まないように、この次と清が徹底される。例えば皇居の賢所にて勤める内掌典のお仕事の様子が大変参考になる。

 清浄でないことを賢所では「次」と申します。身体の下半身に手が触れました時や、足袋など履き物を扱います時、財布(お金)に触れました時、外から受け取る郵便物や書類、宅配便など受け取りました時など、このような場合は手が「次」になります。「次」になりました時は、必ずまず手を清まして(洗う)清めます。

 これに対して清浄なことを「清」とし、清いものと清くないものを「次」「清」と区別して、重ねて「次清」と申します。どんなに細かいことでも厳格に自分で区別することが、もっとも基本の大切な心構えでございます。

 着物を着替える時など、気をつけていても、ついつい「次のもの(腰巻)」などを触ってしまいます。「次」を触った手で他のものに触れてしまうと、清と次が混同してしまいますので、触ったら間を置かず、すぐに手を清まします。

髙谷朝子著『皇室の祭祀と生きて 内掌典57年の日々』河出文庫

 ここまで徹底していなくても、日本人の多くは自宅でも似たようなことをしている。外から帰ってくればまず玄関で靴を脱ぐ。そして洗面所に直行し手洗いうがい。ご飯を食べる前にも手を洗う。便所から出たらまた手を洗う。毎晩お風呂に入り、その日の汚れを落としさっぱりする。こうしたことは幼少の頃から親に叩き込まれているので、いつの間にか習慣となり、特に意識することなく大人になっても自然と実行している。それぞれの意義を深く問うたことはないかもしれないが、とりあえず口酸っぱく言われたからやっている。これが我々を奇怪なウイルスから守ってくれているのではないだろうか。古来からの「次清」の考え方が、現代のゾーニングという感染症対策の基本へと繋がるのは面白い。

 子供の頃の教育が如何に大切かということがよく分かる。昔から続いていることには何かしら重要な意味があるものだ。そのときはその意味が分からなくても構わない。詰め込み教育の弊害も指摘されて久しいが、個性を伸ばすだけが教育ではない。一定の詰め込みは必要で、要するにバランスの問題だと私は思う。詰め込みについてはまた別途記したい。

1)新型コロナ最前線で「基本の徹底」 院内感染ゼロの自衛隊中央病院(SankeiBiz 2020.5.11 06:45)

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