義父のお墓参り
この週末は義父のお墓参りへ。美しい山の中にある素敵なお寺だ。幸いに天候にも恵まれ、暑かったが空気は美味しく、気持ちの良いお墓参りになった。
写真はいずれもその寺からの景色だ。見晴らしが良く、どこを切り取っても爽やかな空と山。
死後の住処としてここ以上の場所はないのではなかろうか。そんな風にも思える場所だ。
しかしお墓参りの際にいつも思うことがある。どうして寺に墓があるのだろうか。お墓というのは謂わば死者の魂の住処である。肉体はなくなっても精神つまり魂はそこにある。だから生者はそこに会いに行く。先祖祭祀というか、そこまでかたい言葉を使わなくても一般に祖先を敬い祀るということにおいてお墓は重要な役割を担う。
一方で仏教(だけではないしそれ以前からある考えだが)では転生というのも一つの重要な概念である。だがお墓に魂が縛られていると転生できない。何よりも、転生してしまうと祖先祭祀の対象が存在しなくなってしまう。墓と寺というのは本来矛盾する存在なのだと感じる。このあたり、寺に墓があることを自然に多くの人が受け入れているというのも、我が國のおおらかさを示しているように思える。神仏習合などもそうであろう。神主が亡くなったときどうするのか、というのも、神仏習合であれば自然と解決されるように思う。明治維新は間違いなくとてつもない偉業であったが、神仏分離令は失政であったと私は思う。