学校教育は國の根幹だ ~大統領になれない私~
米國の大統領選を見ていて、思い出すことがある。
私が米國にいた頃、丁度大統領選があった。二十年前、共和党の候補はブッシュ氏、民主党の候補はゴア氏。この時も相当な接戦となり、紆余曲折を経てブッシュ氏が大統領に就任した。そんな激戦を子供ながらに現地で経験できたのは今思うと幸運だったが、その際にとても印象的で今でも鮮明に記憶していることがある。
当時私は小学生か中学生であったが(私が住んでいた地域は我が國とは異なり六年・三年・三年ではなかった)、授業の一環で共和党のブッシュ氏を支持するか民主党のゴア氏を支持するかでクラスを二分し、お互いの支持理由を討論したことがある。人数は丁度綺麗に半数ずつくらいに分かれ、十歳やそこらのガキンチョたちの教室ながら的確に世論を反映していたことに今振り返って驚く。そもそも日本ではそのような討論の経験がなかったから、かなり新鮮だった。未熟だった私の心に更に強く焼き付いているのは、授業の中で先生が、「このクラスの中に一人だけ大統領になれない人がいる。誰だと思う?」と我々生徒に問うたことだ。その答は勿論、米國籍を有さない私なのだが、当時この答に私は酷く傷付いたことを覚えている。今となっては当たり前のことだと理解しているが、子供だった当時の私は、他の子らに認められている権利を自分だけが有しないということに何か疎外感のような被差別感のようなものを抱き深く傷付いたのだった。
しかし今思うことは、学校におけるこのような教育はとても重要だということだ。これは差別でも何でもない。その國の先頭に立つ指導者が外國人では不都合が生じるのは当然のこと。ところが我が國では、いつぞやの蓮舫議員の二重國籍問題のときに明らかになったように、この当たり前の感覚が國民に共有されていない。由々しき事態だと思う。だがそうしたことを教わっていないし、そのようなことを考える機会も特になく成長するのだから、ある意味これは当然の帰結でもある。
教育は國の根幹だ。米國のように学校教育で討論の技術を習得させる必要はないと考えるが、世の中の仕組みの理解、國や政治の在り方の理解、國民としての最低限の認識共有を促す環境整備は急務だと考える。