健全な精神は健全な肉体に宿る

 三島由紀夫氏のことを昨日書いたら、ふとこの言葉が頭に浮かんだ。この言葉は今まであまり意識したことがなかったが、「確かにそうかもしれない」と最近思うようになった。身近な例は職場にもある。自社か他社かに関わらず、仕事で関わる方々を観察していると、責任の重い役割を担っている方々はしっかり身体の鍛錬をされているように見受けられる。これは身体的な障害の有無に依らない。皆さんご自身のできる範囲で健全な肉体を維持するよう努めているように思われる。筋力トレーニングをされているんだろうな、という身体つきの方が多いのは勿論だが、マラソンやトライアスロンに頻繁に挑戦される方も多く、中にはアイアンマンレースに挑戦される方もいらっしゃる。

 翻って己はどうかと自問すると、一寸足りないなと言わざるを得ない。筋力トレーニングは週に四日前後するようにしているが、ランニングは膝を痛めてからサボり気味だ。サボり続けていると膝も良くならないので、リハビリも兼ねて短い距離でも良いから走った方が良いのだが、ついつい怠けてしまう自分がいる。そしてこれが続いて自己嫌悪に陥るという負の循環を繰り返すので始末に負えない。やはり肉体の鍛錬を怠ると精神も萎えるということか。

 本来の意味とは違うことまでこの言葉に背負わせてしまったが、これを書いたことで心機一転、肉体の鍛錬により励みたいと思う。

 

 と、ここまで書いてから調べて分かったことだが、この「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉、実は誤訳というか本来の趣旨とは異なるらしい。衝撃的だ。もともとはユウェナリスという古代ローマの詩人が残した一節のようで、富やら地位やらを願っても身の破滅に繋がるので慎ましくあるべきという文脈の中で、強健な身体に健全な魂があるように願うべきだという言葉らしい。全然違うではないか…。これがどうして身体を健全にすることで精神も健全になるかのような意味に変じてしまったのか。まあ二千年弱も経てば言葉の意味も変質するか…。

 結果的に勉強になったから良しとしつつ、私はやはりより一層の心身の鍛錬に励もうと思う。

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